烟る雨 きみが、みえない
100:出来ることなら、いつまでもあなたに恋していたかった
ざわつく流れから抜けだして一人で入り組んだ通路を歩く。半ば地下組織であるから範囲が地上と地下を行き来する。合法性もなくなりつつあるから余計に潜れるようになった。手続きを踏んで地上に出ると温い風が頬を撫でた。空を見ると重たく垂れた曇天で気温が下がれば雪でも降りそうだ。今の時期だと雨だな、とひとりごちる。後ろを振り返るような真似はしないが神経が背中へ集中しているのは自覚した。卜部がいつもふらりと出かける度に見送る人がいるのを知っている。不意に揺らいだ鏡面越しに見つけたときは思わず振り向いた。藤堂だ。卜部は藤堂が好きだ。上官として尊敬できるし人柄も悪く無いと思っている。戦績や精悍ななりから怯えや威嚇を受けても自分を貫く藤堂が卜部は好きだ。黙らせるだけの戦闘力があるし指揮能力も高い。藤堂が起こした奇跡は記憶に新しい。
卜部が振り向いた。なんとなくだ。佇んでいた藤堂の姿がふらっと消える。それでいいと思っている。藤堂は有能だし無愛想でも判るものには判るものだ。総じて人気もある。卜部は自分が藤堂の中で特別な位置にいるとは思っていない。多少戦闘機を上手く使えるから階級や位置として藤堂のそばにくくられるのだと知っている。姿を消す藤堂の手に外套があった。出かけンのかな。そう思いながら深追いしたりはしない。卜部自身出かける先がそうそう公言するにははばかられる場所だ。軍服は脱いで私服になっている。藤堂が公私の区別をつけるほうだからその部下である卜部なども多少影響されている。公の席での藤堂の我慢強さは呆れるほどで、時折その控えで後手に回るはめにもなる。それでも藤堂が上官を責め立てるところは見かけない。一度ひどい理不尽に見かねた卜部が声をかけると藤堂は、それでも上は立てるものなのだと短く言った。その後で、四聖剣のお前たちにはずいぶん私を立ててもらっていると淡く笑った。精悍さが消えて危うささえある儚いそれに卜部はやはり藤堂のことを好きだと思った。
いつも違う道を通る。運河沿いに歩いたり気がつくと不意に知らぬところへ出ている。曖昧なその界隈は外見も中身も知らぬうちに変化していてそれが当然だ。空き家に人が入っているかと思えば食事の匂いがした部屋の硝子が割れて荒れている。住人は理由も問わずにそういうものだと受け入れる。だからこそ卜部のような身元に危険を伴うものさえ出入りする。喪失の危険をはらみながら莫大な利益を帯びる場所だ。透明な水を吐き出しながら濁水を吸い上げる。倦んだように執着がなく出入りの頻度さえ話題にならない。それでも新参はすぐに見分けがつくし弾かれて消えるものも居る。卜部はこの路地裏が心地よかった。所属がどんどん正当から遠くへ押しやられる度に理由もなく生まれて理由もなく死んでいくこの場所から抜け出せなくなった。羽虫のように群れてひと掻きされればあっという間に散り散りになる。いつの間にか違う顔ぶれでまた群れるのを繰り返す。見知った顔が地面に転がって動かなかったり知らぬ男に助けを求められたりする。人々は億劫なのだ。
卜部はいつもどおりに露店を冷やかした。玩具と淫具が並ぶそのくくり方は卜部には判らないし判ろうと思ったこともない。売る側もそんなことは伝えない。売り子さえ日替わりだ。同一人物が素知らぬ顔で位置だけ変えていることもある。まだ表通りに近いこの辺りは真っ当な方で、住宅地へ入り組む路地になると慣れたものではないと惑うし迷う。襲ってくるのは野犬だけではない。卜部は誘われるように裏へ入り込んだ。吸い慣れた煙草の煙も高額でやり取りされる非合法も何もかもが極めて目立たなく行われた。住人は抑制と抑圧に表情を失くした。目の前で人が暗がりへ連れ込まれても騒ぐものはいない。あてもなく歩いた卜部の足が止まる。
背中を固いものが圧す。前兆は感じなかった。小さく痛いそれはおそらく小型の刃物だ。服が裂けてなけりゃいいけど。所属団体では正当性と同時に資金源さえ失くす日々だ。戦闘に少ない資金をつぎ込むから末端の身なりなど全く考慮されない。強固な結束と結果を求め風習や決まり事がまかり通るのにそれにかかる費用は自己負担だ。
誘導されるままに卜部は袋小路へ連れ込まれた。振り向いたり騒いだりしない。少なくとも背中の痛みはここの流儀を知っている。声さえ出さないそれは用心深い。行き止まりに卜部が振り向く。思考が瞬時に塗りつぶされた。痛みの位置からチビではないと思っていたが。藤堂だった。多少傷んだ外套も小型のナイフもこの界隈ではありふれた格好だ。薄く笑んだままで藤堂は卜部の鼻先へナイフをちらつかせた。
「素直だ」
説明も弁解も一切なかった。二人はただ路地裏で鉢合わせただけの知らぬ同士に見える。藤堂も馬鹿ではないから言っていいこととそうでないことの区別が付く。外套の上からでも形の良い骨格であるのが判るほど藤堂は綺麗だ。灼けた肌に鳶色の短髪で秀でた額もあらわだ。凛とした眉筋や鼻梁は通り、口元も引き締まっている。切れ上がる眦は明瞭で灰蒼の双眸は濁った玉だ。蒼が深く薄く色づいているのに不意に見失う。普段の堅さは取れてある程度の崩壊は藤堂を艶めかせた。匂い立つ慣れに卜部は少なからず動揺した。
藤堂は戦闘機に乗ることや剣の指南役であることを覗わせる手をしている。へこみやたこがありそれは藤堂が歴戦の勝利者である裏付けと努力の証だ。堅実で誠実な藤堂がこの場所でこなれていることは卜部の言葉さえ失わせる。正当性がなくとも軍属として規則は厳しいし藤堂はその鑑なのだ。平素からこぼす言葉や動作にさえその片鱗は見えていない。卜部は藤堂を視認してから思考が鈍り出した。驚くばかりで白く染まる脳裏は分析もできない。
「…な、んで」
発した声は掠れた喉を引き攣らせて咳き込みそうになる。なにがだ。藤堂はしれっと訊いた。ここにいる理由か。それともお前にこんなことをする理由か。藤堂の思考は明晰で卜部の先を回る。回転の良さも鈍ってない。両方だけど。藤堂は平素にはない笑みを貼りつけたままだ。笑みといっても口の端が上を向いているだけで一見しただけでは気づきにくい。口を開く前に卜部が体を傾がせた。薙いだ刃先が掠って頬骨のあたりに赤い線が引かれた。叩きこまれた戦闘本能だ。理屈の前に体が動いた。藤堂は笑みを深めた。満足気に口元を緩める。避けなかったら顔の真ん中にナイフが突き立っている一振りだ。あぶねぇ、だろ。避けられると思っている。悪びれる様子もない。駄目だったらどうすんだよ。そのまま帰るが。
逃げようにも路はない。不法な増築や改築を繰り返した結果生まれた袋小路だ。周りの家の鎧戸は閉められているし行き詰った通行人を助ける傾向はない。同性同士の交渉も諍いさえもこの場所では許容範囲だ。卜部に悲壮さはなかった。驚いたがどこかで藤堂の既知であることや自覚するだけの好意があると信じていた。藤堂は器用にナイフを右左と持ち変える。一級の戦闘要員には利き手に頼らない。必要に応じてどちらも同じように扱う。この状態を逆転するだけの要因にはならなかった。藤堂と卜部では戦闘力の規模が違う。
「なにを、する気」
「さて、なにをしようか」
藤堂のナイフの切っ先が卜部の服の釦を飛ばす。糸が切れて釦は音もなく地面に堕ちた。
卜部は仰臥したまま雲が近いのを見た。黒くて重い雲に空気が湿る。息を吸った瞬間に雨垂れが頬を打つ。雨垂れの間隔はだんだんと狭まってしまいには絶え間ない降雨となった。雨よけもないから藤堂と卜部は二人共ずぶ濡れになった。分離しても藤堂は卜部の体をしきりに触る。雨で濡れた皮膚はふやけて境界を失い、温い藤堂のぬくもりに融けていく。卜部の脚の間で藤堂は具合を確かめるように卜部の体や四肢に触れてくる。シャツ越しであってもしっとり吸い付くそれは性質悪く卜部の拒みを薄める。舗装されていない地面から雨の匂いが立ち上る。腐臭のように絡みつく重いそれは入浴しても中々消えない。藤堂の手が卜部の関節や筋肉の薄い場所を圧したり曲げたり伸ばしたりする。
「怒らないな」
つぶやかれた言葉にする返事がすでに億劫だ。そして、同時に。
「…俺、あんたが好きだよ」
雨流が流れ込んで喉を濡らす。藤堂の髪も濡れて滴が落ちた。鼻先や顔がしっとりと濡れそぼつ。
「そうか」
私はお前が好きだが。躊躇がない。卜部の目蓋が閉じた。黒くて温い闇だ。ぐりぐりと押してくるのは指先か。撫でるだけではなく眼球さえ押し込まれそうだ。意外と睫毛があるのだな。…なに? お前はお前が思う以上に可愛い。こんな丈の男に言う台詞じゃねぇ。藤堂は猫のように喉を鳴らした。笑っている。平素の藤堂はめったに笑わない。立場と状況がそれを許さない。好き同士なら構わないか。なにが? 男が好き同士で構わないことなんて極まってる。知らねぇなぁ。卜部も笑った。
藤堂の指先が腹を圧す。骨の守りがないからズブズブ犯される。藤堂は関節や腹をしきりに圧す。嫌がって身じろいでも微笑んだままだ。お前のためならなんでもできるな。その意味は多岐にわたる。卜部は同調も否定もしない。ありとあらゆる意味で己を殺すほどの激しい感情には卜部は遠かった。守りたい場所も取り繕う見栄もたくさんある。尊厳などと仰々しいものではなくただ嫌だとかこう思うからだとか単純なものだ。簡単で浅いほどそれの取り返しが難しい。容易に沁み通るそれを抜くのはひと手間いるし見た目が変わらないから気も進まない。藤堂は卜部を解剖するようにシャツの前を開き留め具を外しては、手を這わせたり滑り込ませたりした。おおかたの部分が雨でふやけた表面だけ温もる。脚の間に手が滑り込んだときは一瞬体が強張った。
しばらく矯めつ眇めつして藤堂は手を引いた。卜部の横へ躊躇なく腰を下ろす。地べたであることも雨が降っていることも藤堂には影響しないらしい。傷んだ外套や剥がれた卜部の服はパズルの欠片のように黒く濡れた地面に点々とした。藤堂の指が土に埋まる。桜色の爪が地面を抉って埋まるのを卜部は茫洋と眺めた。指の長さや形がちょうどいい。卜部は藤堂より長身なので四肢の長さも違うしひょろりとした性質のように伸びる。既成品で間に合わない場合もあって少し不便だ。藤堂はまだ規格内な気がした。あんた指綺麗だな。汚いぞ。即答だ。汚ェッてどこが。染み透ったものがありすぎてな。微妙にぼかされる。あんた桜似合うよ。お前もあうと思う。なんで俺だよ。お前も立派なオトナだからな。流し見てくすりと笑う藤堂は艶やかだ。雨に打たれて一房二房と垂れてくる前髪は中途半端な目隠しで色気を匂わせる。なんでも様になるよなぁ。なにが? さぁな。
私が嫌いになったか? なんでもないことのように問う。強引に押し進めるほど切羽詰まっているのかと思っていたが藤堂は案外冷静だ。声に動揺はない。なんだよ、もう寝たから用はねぇって言いたいのかよ。使い捨てではないんだから一度で済ますつもりはないが。さらりと言ってくれるものだ。卜部は天を仰いだ。それでなんであの質問だよ。嫌いになったなら対応を考えたい。対応ってなに。方策というか。やり方を変えようかと。することはするンだな? 藤堂は頷いた。ぽたぽたと雨滴が垂れた。耳の裏や首筋にそって流れができた。髪の奥へ不意に染みて少し驚く。卜部の黒青の髪が地面との境界を曖昧にする。濡れたシャツの張り付く白さだけが目についた。藤堂の肩や胸が濡れて透ける。秘されているものを覗き見る後ろめたさと見えてしまうことで覚える興奮がある。藤堂と目が合う。藤堂の目線は卜部の胸部や下腹部を執拗に這った。口元が弛んでいる。
「なんだか全裸より性的だ」
「言うな」
けっと吐き捨てても藤堂は苦笑するだけだ。カサくらい持ってこいよ。邪魔だろう。ナイフは持ってんじゃねぇかよ。必要だ。わからねぇよ。藤堂は折りたたまれたナイフをポンと上に投げて上手く受け取る。手慰みを繰り返した。金属の白銀が雨で鈍く光った。木目は黒ずんで重たく湿る。
唇が重なる。覆いかぶさる藤堂越しに卜部は雨空を見上げた。なんで、こんな。好きだから。はぁ? 言っただろう。
お前のためならなんでもできる
正否なんか 関係ない
俺が嫌がるとか嬉しいとかは。先程お前は私を嫌いになったかという問いで嫌いだと言わなかった。だから好きになってもらう。卜部は言い返さなかった。触れてくる藤堂の体温が高い。濡れて熱でも帯びたかのようだ。
「お前を好きだよ」
始まらない恋
あなたを
俺は
《了》